Shigeru Nishikawa

Copyright(c) Shigeru Nishikawa

Sealed House 121-New National Stadium 2- 970×1940mm oil, graphite, metal powder on canvas, panel 2020

年が明けてすぐに地元の友人から連絡があり、画家の石倉先生が亡くなったことを知った。石倉先生は中学校の時の美術の先生であり、地元では先生と言うより画家としての印象が強かった。当時の僕は画家の道を歩むことなどは毛頭なく、画家の人は変わっているなとの認識だった。

週休二日ではない当時、先生は土日を使いスケッチに行くため、土曜日の授業は自習になることも多かった。勉強熱心ではない田舎の学校なので、生徒である僕たちは大歓迎でそれを受け止めていた。親の愚痴は時折聞こえてきたりはしたが。美術の授業中、僕たちはふざけて「先生画家なんやから描いてや」みたいなことをいうのだが、そんな時は真剣に怒る。それでもボールペンをささっと走らせると風景が立ち現れる。上手いもんやな~と感心しつつ、上手いという物差ししか持っていなかった当時、こんなにも上手いのに画家だけでいることが出来ないって大変な世界やな~と考えていた。

小学生くらいまでは絵が上手い方だと思っていたけど、これはとてもじゃないが自分には届かない世界だなと。

そこから数年が経ち、僕は画家の道を選び、人生において大事な舵を切ることとなる。当時先生は地元の公民館で絵画教室を行っており、そこに親戚のおばちゃんが通っていたこともあり、僕が画家の道を選んだことを伝え聞いたとの事。驚いたと同時に大変な道を選んだな~と話していた。僕は僕でそのおばちゃんから先生が色紙に描いたスケッチを譲り受けていたこともあり、10年以上の時を経て再度先生と繋がることになった。

30を前にして初めて先生のアトリエを訪問して、色々と話をした。

パイプを燻らしながら話している先生の姿が今も思い浮かぶ。

東京の美大を卒業して、美術教師となって三重に帰ってきた先生ではあるが、当時の問題高とやらに赴任することになった。当然新米教師の先生はもとより、学校でも持て余していた生徒たちに対抗するため、体にアクリル絵の具で描いた刺青と、持ち前の気合いで、その筋の人間であると生徒たちを信じこませて、それを生徒達との秘密として共有する事で、彼らと信頼を得る事に成功した話。

また、50歳を超えて初めて海外、スペインに旅行に出掛けたことを興奮して話していた。もっともっと早くに行くべくだったと、嬉しそうに悔やんでいた。そこでの様々な作品との対峙、見た日の光、そういったことをとても嬉しそうに、その体験によってもっともっと制作に打ち込めると。本当に嬉しそうに。同時にもっと早く、その体験をすべきだったと悔やんでもいる。

その顔もよく覚えている。

ちょうど、僕はその一年後にアメリカに向かうことになった。30になる前のおおよそ一年の間、アメリカに行くための諸々の準備や、費用を貯めるために高校生以来の実家暮らしとなり、地元でバイトをしてお金を貯めたりしていた。その間は先生宅で開かれるクロッキーの会に参加して、学生以来のヌードクロッキーなどを描いていた。その時のクロッキーはどこにしまったかな・・・。帰国後は慌ただしく関西に戻ってきたため、ゆっくりと話をする機会もなかった。

最後に会ったのは3、4年前に三重県の洋画団体の展覧会に先生が出展されていた時。最終日に会場におられるとの事で会いに行った。体調は余り良くないとはいっていたが、前年に画業51年の画集を出版した事や、それでも100号のサイズを描いたことなどを満足そうに話していた。まだまだ描けると。閉場後、作品の梱包を手伝い、集荷場所まで作品を運んだのが、先生との最後の時間だった。

青春時代の多くを共に過ごしたわけでも、長い時を共に過ごしてきたわけでもなく、酒を酌み交わしたわけでもない。ただ点々と繋がっていた。それでもそこに地元で暮らす画家の背中を見ていた。

先日、地元の漁港を愛し、幾度となく描いてきた先生の漁港の絵を見て「本当に海はこんな色なんですか?」と質問を受けた。

その瞬間ハッとした。

そこで育った僕にとっては本当にその色で、その色で海を認識していることに気が付いた。そういえばアメリカに行く前、オキーフが描く風景は実際にある色とは違うと考えていた。でも、オキーフが暮らした土地を実際に訪れてみると、どこまでもその色が拡がっていた。

体験は色濃く、色として残る。

僕にとっての海は石倉先生の色としてある。

このご時世、最後はとても短なお別れとなったが、暖かな時間であった。

ゆっくりと日が暮れるまで海が見たい。