Shigeru Nishikawa

Copyright(c) Shigeru Nishikawa

Sealed House 121-New National Stadium 2- 970×1940mm oil, graphite, metal powder on canvas, panel 2020

解除

個展「under construction or destruction 2020 Tokyo」展示風景 撮影:鈴木一成

関西では緊急事態宣言はどうやら明日にも解除される方向らしい。

そうでなくとも、ここ数日は市内も大分車が増えてきているように感じていた。

国立国際美術館も6/2から再オープンという事で、少しずつ新しい日常が始まる。

首都圏も今月中に解除されるといいな。

すれば、個展も最終週には週末も開けれるかもしれない。

少しずつ新しい日常を受け入れる。

でも、 外界はいつだって変わらぬ営みである事にたまに救われ、たまに突き離される。。

眼福

Sealed House 122 oil, metal powder on canvas 606×455mm 2020
個展「under construction or destruction 2020 Tokyo」展示風景 撮影:鈴木一成

この時期の新緑は本当に目に眩しく映る。

木々の葉はキラキラと風に揺れ、輝き、目が本当に喜んでいるように感じる。

 僕は高学年にあがる頃に視力が落ち始めた。

親からは目が良くなるから緑を見なさいと言われて、家の間近に迫る山をよくぼんやりと見ていた。そういえば父は眼に良いからと言って、うなぎを釣って捌くときにそのまま生の肝を食べていた。(しかし、父はずっと目が悪いまま。)

全然楽しくないし、むしろ退屈で、直ぐに視線は別の所へと移る。

緑が目に良いってどんな根拠や理由があるのか皆目見当もつかなかった。

が、それは距離感や対象に問題があったのではないかと、庭の新緑を味わっているときに思った。

この新緑を見るときに感じる目の喜びが、目が良くなるという事ではないかと。

子供の頃の緑といえば大きな山だった。それは1番大きな対象であり、絵を描くときに山は緑、空は青、雲は白、りんごは赤といった記号のような物だった。そこから緑といえば山だったのだ。

遠くの山に風を感じないし、鳥の声や、光の煌めきなんかも見えるわけがない。目が喜ぶはずもなく、退屈なだけである。

多分、目が良くなるから緑を見なさいの緑は、新緑の緑が目にもたらす快感を指しているにではないか。そこには煌めく、揺らめくと言った要素が必要で、遠くの山々の緑ではないのだろう。

遠くの山々を見て喜ぶのは想像力の方で、これは山登りやスキーなどが好きな人や、何かしら山々から具体的な恩恵を受けている人が想像する喜びであって、目の喜びではない。

その為、「目が良くなるから緑を見なさい」とは具体的に新緑の緑なんじゃないかと思ったのである。

何も調べてないので真実は知りませんが。

でも、そう考えると納得がいく。

光を通す薄くて強い緑。浅くて深い緑。暗くて鮮やかな緑。折り重なって煌めいて、揺らめく緑。

見るより先に目が喜ぶ。

この緑の世界には、キャンバスの絵の具の世界では矛盾するような薄く強い、浅く深い色がただそこに存在する。

この矛盾を矛盾のままに、眼福を捕まえたいと庭の新緑を見て思う。

信じつつ疑う。

個展「under construction or destruction 2020 Tokyo」展示風景 撮影:鈴木一成

当初は三月のフェアと四月の個展にかけて東京に行く予定だったので、オラファー・エリアソン、ピーター・ドイグ、白髪一雄の展示を見る事をとても楽しみにしていた。

白髪一雄の作品からはキャンバスの大きさに対しての筆跡(足跡)の幅はどうかなどをみたりする。

これくらいの筆跡(足跡)の幅があればどう見えるのかとか。

キャンバスの大きさに対してのタッチの大きさ、どのくらいの手数が入っているかなど、とても注意深く眺める。

色を必要以上に混ぜ合わせないためには手数を減らす必要がある。

手数を減らすためには最短で最大の効果を持つタッチが必要となる。

削りつつ、増やすためにはどうしたらよいか。

増やすために、減らす。

そうして最短距離を模索するのだが、いつも気をつけている事はそうした最短距離が、必ずしも良い作品を作るわけではないという事。

良い制作はできるかもしれないが、良い制作が良い作品とは限らない。

信じつつ疑う。

矛盾ばかりだが、その矛盾を矛盾のままに受け入れる事が、大事なんじゃないかと最近よく思う。

群像図

個展「under construction or destruction 2020 Tokyo」展示風景 撮影:鈴木一成
Sealed House 130-new town- oil, graphite, metal powder on canvas, panel 970×1940mm 2020

Sealed House 130-new town-は群像図が形になった作品で、近所の宅地開発現場を描いた作品です。

散歩をして、こうした建設中、解体中のシートで覆われた建物を写真に撮っているが、歩き慣れた土地であっても唐突に現れる更地にドキッとする事がある。

度々通っているのに、そしてこんなに大きな更地であるのに、前に何があったのかが思い出せないのだ。

そして直ぐに新しい住宅地なり、大型店舗なりに姿を変えていく。

そうして、かつてのその場所を忘れた事さえ忘れてしまい、その場所に馴染んでいく。

新しい街の記憶であり、かつての街の忘却。

簡単に更新されてしまう。

パンデミック

個展「under construction or destruction 2020 Tokyo」展示風景 撮影:鈴木一成

今回の個展の作品について少しずつお話したいと思います。

メインの新国立競技場の事は個展のテキストに記しているので、それ以外の作品に関して。

基本的には自分で撮影した写真、つまり、当地(建設、解体現場)を訪れて撮影した写真が元となっている。が、全ての場所に行けるわけでもなく、また、様々な場所、時間でこうした建設と解体は絶え間無く行なわれているので、多くの方から情報をいただいたりもする。

お台場にある自由の女神が補修の為に覆われていると、作家の宮原野乃実さんから連絡があり、写真を送ってもらった。宮島の大鳥居はギャラリーアウトオブプレイスの野村さんから、写真家の多田ユウコさんが撮影した写真を見せて貰い、許可を得て使用させて頂いた。

自由が封印される。

聖域が封印される。

世界が今、直面しているこの状況下にピタリと当てはまるモチーフであり、それは新国立競技場の時にも感じた事だが、2020年がこのコロナ禍による未曾有の事態として記録、記憶されていき、その記憶はいつかは忘れられていく中で、描くべき、今残すべき対象ではないかと感じた。

然るべき時を得て、その自由も聖域も封印が解かれるであろうが、それはかつての自由や聖域と同じなのだろうかと、絵の具を載せながら問うていた。

僕はより良い未来を見ながら現実を描いていくのだと思う。