Shigeru Nishikawa

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Sealed House 121-New National Stadium 2- 970×1940mm oil, graphite, metal powder on canvas, panel 2020

点と線

「車軸」 
著:小佐野弾 装丁:鈴木成一デザイン室 カバー作品:Sealed House 80

一年前、手元に鈴木成一デザイン室により装丁された小佐野弾さんの小説「車軸」が手元に届いた。

自分の作品がこうして本の表紙として採用されるとは想像だにしておらず、その年の3月のアートフェア東京での出会いからトントン拍子で話が進んで行った。

色の交わり、支える軸。小説の内容とも確かに自分の作品がリンクしていることが嬉しかった。

また、この年の末には同じフェアにて出合った佐藤拓さんの企画となる展示を、H Beauty & Youthにて行うことが出来た。

ギャラリー以外でこうして展示するとは思いもよらなかったが、とても良い展示に仕上げることが出来た。

この二つの出来事は昨年のハイライトと言えるかもしれない。

今年のフェアはこの状況で中止となってしまった。

発表の機会がなくなることはやはり心苦しいことであるが、こうした出会いの場がなくなることが悲しかった。

これからもこうした不測の自体は起こることもあるかもしれない。

けれども、これからも作品を作り続けることで、人との出会いを重ね、新しい扉を開いていきたい。

ミッドサマー

個展「under construction or destruction 2020 Tokyo」展示風景 撮影:鈴木一成

映画「ミッドサマー」を観る。

ヘンリダーガーの世界観のようなビジュアルインパクトが印象的で、予告編を見た瞬間から楽しみにしていた。

こんな状況なので観ることは叶わないかと考えていたが、幸運にも観る機会に恵まれた。

アメリカの健全なコミュニテイにて1年間を過ごした体験から、コミュニテイの持つ、どこか独特の空気感は想像が付くし、これまでの常識とは違う異なる習慣の中で暮らすことは、不安と戸惑いの連続であり、新しい体験の喜びだったことを思い出していた。

しかし、映画で描かれているコミュニテイは、常軌を逸した前近代的な慣習の上に成り立っており、おとぎの国のような衣裳や、天使のような振る舞いからはそのイメージとは程遠い殺意が滲み出ている。

最初から言いようのない不安感が脱ぐいきれず、コミュニテイの祝祭が進めば進むほどにその不安感がジワジワと浸食してくる。

クライマックスでそれまで飛んでいた主人公の視野がグッと定まるのは、絶望の果ての希望なのか何なのか。

強烈な世界観だった。

沈黙の時にも書いたけど、神や信仰や人間の残虐性について考える。

フィクションで描かれたミッドサマーより、史実に基づいた沈黙における拷問の方が執拗で残虐であるという事。

実際に起こり得る現実は想像を軽く超えていく。

沈黙

個展「under construction or destruction 2020 Tokyo」展示風景 撮影:鈴木一成

映画「沈黙」を見て、原作も読む。

神とは信仰とは何だろうか。

物語の中で役人達は信徒に対して、建前で踏み絵を踏めという。形式上、手続き上、踏んだという記録があれば、そのまま裏で信仰を続ければ良いからと説得する。

それでも踏まない、信徒たち。

また建前で構わないくらいだと言いながら、役人達はそんな建前の為に信徒たちを殺していく。

傍らでそれでも祈り続けるパードレ。

沈黙を続ける神。

僕は神さまを偶像化する事は出来なくて、神さまは人と自然との関係性だと考えている。

人がコントロール出来ない自然と折り合いを付けるために神さまを必要としたのだと。

八百万の神。

科学の発展に伴い、希薄となってきている関係性。

トンボとヘリコプターを小さく同等に描いていた時もこの関係性を描いていた。

Sealed Houseのシリーズも、都市や郊外で人が繰り返す破壊と創造、その土地や場所との関係性を顕にする試みと言える。

そう思うと僕はずっと神さまを描いているのかもしれないとふと思った。

人と自然との関係性という神さま。

折り合いをつけるということ。

解除

個展「under construction or destruction 2020 Tokyo」展示風景 撮影:鈴木一成

関西では緊急事態宣言はどうやら明日にも解除される方向らしい。

そうでなくとも、ここ数日は市内も大分車が増えてきているように感じていた。

国立国際美術館も6/2から再オープンという事で、少しずつ新しい日常が始まる。

首都圏も今月中に解除されるといいな。

すれば、個展も最終週には週末も開けれるかもしれない。

少しずつ新しい日常を受け入れる。

でも、 外界はいつだって変わらぬ営みである事にたまに救われ、たまに突き離される。。

眼福

Sealed House 122 oil, metal powder on canvas 606×455mm 2020
個展「under construction or destruction 2020 Tokyo」展示風景 撮影:鈴木一成

この時期の新緑は本当に目に眩しく映る。

木々の葉はキラキラと風に揺れ、輝き、目が本当に喜んでいるように感じる。

 僕は高学年にあがる頃に視力が落ち始めた。

親からは目が良くなるから緑を見なさいと言われて、家の間近に迫る山をよくぼんやりと見ていた。そういえば父は眼に良いからと言って、うなぎを釣って捌くときにそのまま生の肝を食べていた。(しかし、父はずっと目が悪いまま。)

全然楽しくないし、むしろ退屈で、直ぐに視線は別の所へと移る。

緑が目に良いってどんな根拠や理由があるのか皆目見当もつかなかった。

が、それは距離感や対象に問題があったのではないかと、庭の新緑を味わっているときに思った。

この新緑を見るときに感じる目の喜びが、目が良くなるという事ではないかと。

子供の頃の緑といえば大きな山だった。それは1番大きな対象であり、絵を描くときに山は緑、空は青、雲は白、りんごは赤といった記号のような物だった。そこから緑といえば山だったのだ。

遠くの山に風を感じないし、鳥の声や、光の煌めきなんかも見えるわけがない。目が喜ぶはずもなく、退屈なだけである。

多分、目が良くなるから緑を見なさいの緑は、新緑の緑が目にもたらす快感を指しているにではないか。そこには煌めく、揺らめくと言った要素が必要で、遠くの山々の緑ではないのだろう。

遠くの山々を見て喜ぶのは想像力の方で、これは山登りやスキーなどが好きな人や、何かしら山々から具体的な恩恵を受けている人が想像する喜びであって、目の喜びではない。

その為、「目が良くなるから緑を見なさい」とは具体的に新緑の緑なんじゃないかと思ったのである。

何も調べてないので真実は知りませんが。

でも、そう考えると納得がいく。

光を通す薄くて強い緑。浅くて深い緑。暗くて鮮やかな緑。折り重なって煌めいて、揺らめく緑。

見るより先に目が喜ぶ。

この緑の世界には、キャンバスの絵の具の世界では矛盾するような薄く強い、浅く深い色がただそこに存在する。

この矛盾を矛盾のままに、眼福を捕まえたいと庭の新緑を見て思う。