この時期の新緑は本当に目に眩しく映る。
木々の葉はキラキラと風に揺れ、輝き、目が本当に喜んでいるように感じる。
僕は高学年にあがる頃に視力が落ち始めた。
親からは目が良くなるから緑を見なさいと言われて、家の間近に迫る山をよくぼんやりと見ていた。そういえば父は眼に良いからと言って、うなぎを釣って捌くときにそのまま生の肝を食べていた。(しかし、父はずっと目が悪いまま。)
全然楽しくないし、むしろ退屈で、直ぐに視線は別の所へと移る。
緑が目に良いってどんな根拠や理由があるのか皆目見当もつかなかった。
が、それは距離感や対象に問題があったのではないかと、庭の新緑を味わっているときに思った。
この新緑を見るときに感じる目の喜びが、目が良くなるという事ではないかと。
子供の頃の緑といえば大きな山だった。それは1番大きな対象であり、絵を描くときに山は緑、空は青、雲は白、りんごは赤といった記号のような物だった。そこから緑といえば山だったのだ。
遠くの山に風を感じないし、鳥の声や、光の煌めきなんかも見えるわけがない。目が喜ぶはずもなく、退屈なだけである。
多分、目が良くなるから緑を見なさいの緑は、新緑の緑が目にもたらす快感を指しているにではないか。そこには煌めく、揺らめくと言った要素が必要で、遠くの山々の緑ではないのだろう。
遠くの山々を見て喜ぶのは想像力の方で、これは山登りやスキーなどが好きな人や、何かしら山々から具体的な恩恵を受けている人が想像する喜びであって、目の喜びではない。
その為、「目が良くなるから緑を見なさい」とは具体的に新緑の緑なんじゃないかと思ったのである。
何も調べてないので真実は知りませんが。
でも、そう考えると納得がいく。
光を通す薄くて強い緑。浅くて深い緑。暗くて鮮やかな緑。折り重なって煌めいて、揺らめく緑。
見るより先に目が喜ぶ。
この緑の世界には、キャンバスの絵の具の世界では矛盾するような薄く強い、浅く深い色がただそこに存在する。
この矛盾を矛盾のままに、眼福を捕まえたいと庭の新緑を見て思う。