田舎で育った為、野山や海、川でよく遊んだ。
様々な遊びやスポーツにはルールがあって、そのルールのもとで遊びやスポーツが成り立つ。
よくアートは自由だと耳にするが、そのアートにもルールがある。
ふと野山で遊ぶルールとは何だったのかと考えた。ここでいう野山で遊ぶとは、魚をとったり、クワガタをとったり、木を切ってゴルフクラブにしたり(プロゴルファー猿世代)、竹を切って弓を作り鳥を狙ったり、山菜を採ったりなどなど、主に狩猟採集となる。木や崖に意味もなく登ったりもよくしたものだが。
そうすると結局ルールと言えるのは必要以上に取りすぎたり、切りすぎたりしないということになる。じゃないと来年遊べなくなるから。
難しい話ではなく、小学生でも遊ぶ事によって肌で感じてきたこと。
当たり前だった。
暑い日照りが続いて川の澱みが取り残されると、逃げ場を失った川エビがそこに集う。普段はなかなか獲ることが難しい大物もそこに逃げる込むため、大興奮で獲り放題だった。でも父にはよく獲りすぎるなと注意を受けた。
その意味が分かる年頃になると、逆に下級生に獲りすぎるなと伝えていく。
そうして神話が受け継がれてきたという微かだが実感のような物がある。
大人になりアメリカのホワイトサンズの果てしない台地に一人で佇んでいた時にも感じた事だが、神とはやはりそうした関係性なのだと思う。生きることと切り離せず、コントロール出来ない関係性。
でも大学に入り環境デザインコースに進むと、そんなルールはどこにもないことに気づいた。
当たり前すぎて疑問にも思っていなかったルールが通用しない。
分からなかった。
しかし思い当たる節は子供の頃に一杯あった。
河岸工事の翌年は獲れる鮎のポイントも減ったし、大きさも小さく、量も減る。けれど毎年毎年工事は場所を変え繰り返される。
そうして川はどんどんと姿を変えていく。
どうやら僕はその疑問が膨らみ続けることによって、絵を描くことに進んで行ったらしい。
僕の中にある川は、小学生低学年の頃、父親と早朝クワガタを取りにいった時の川。
前日の雨は止んで薄明るくなりつつある川には靄が立ち込める。いつもより流量を増した川は流れが早く、足を取られないように必死に、かつゆっくりと足の置き場を確認しながら、対岸に渡っていった。
ふと川の真ん中で上流を眺めると、そこには様々な呼吸が満ち溢れていた。
神々しかった。
溢れる呼吸が気配となり辺りを包む。
そしてその溢れる呼吸が気配となり川の主を作る。
そこにも自分の中にある神話の節々を感じることが出来た。
ここでいう神話とは、物語として形となったものではなく、野山で培った、そこを満たす秩序のようなもの。
その美しき僕の川に、自分が追っている美のルーツを感じ続けている。