Shigeru Nishikawa

Copyright(c) Shigeru Nishikawa

Sealed House 121-New National Stadium 2- 970×1940mm oil, graphite, metal powder on canvas, panel 2020

吉兆

[ Sealed Gate -宮島- ] oil, metal powder on canvas 650×650mm , 2020

先日、作品の搬送のため、運送業者の所にレンタカーで作品を運んでいた時の事。

道すがらの川沿いにキジの雌雄がいた。

興奮して眺めている(キジを見ると昔から興奮する。弓矢を自作していた小学生の頃の憧れの標的だった。)とその後も計10匹を超えるキジが河原の茂みに姿を見せている。

「今日はなんて日だ」と、明け方の激しい雨が止み、晴れ間を覗かせ始める空を見ながら街中に車を走らせると、今度はこれでもかと柴犬を見かけ再びテンションが上がる(柴犬飼いたい)。その数、1、2、3、4、5連続。

まだ小雨が降ったりする中、主人の都合などそっちのけで歩く姿が柴犬らしくたまらない(この空模様では柴犬以外は出会わなかった)。

そういえば小学生の頃、散髪屋さんが柴犬(コータロー)を飼っていたので、散髪の後で友達とよく散歩に連れて行った。(ちゃんとおじちゃんに伝えてから)

直ぐ前の砂浜に連れて行き、リードを離す。

誰が最初に捕まえるか、コータローとの真剣勝負。コータローめがけダイビング。砂まみれ。

散髪屋のおじちゃんはまさかそんな事して遊んでいるとは知らなかっただろうな・・・。いや、でもコータローもめっちゃ楽しんでいたはず。

地元の神社を詣でると、そのまま裏山を抜けてぐるっと散歩をして帰るのだが、その裏山は僕の中のキジスポットだ。

キジを見るということは僕の中では、吉兆と捉えていてそれだけで良い年になると感じている。

同じく、大台ヶ原を抜ける際に出会う事があるカモシカも吉兆。

だから何だという話だが、この不穏な空気がなんとなく漂う中、関係なくキジが群れ、柴犬が歩く。

キジ、犬・・・あれ、猿でコンプリートだな。

気持ちの良い日だった。

封じられた自由

[ Sealed Statue -the Statue of Liberty Tokyo- ] oil, metal powder on canvas 650×650mm ,2020

美術館に始まった休館は、今や関西のギャラリーにも広がった。

中でも京都のギャラリーパルクのニュースはショックだった。

今後、表現する場としてのギャラリーも仮想の世界に移ってしまうのか。

そうするとその場に特化した表現や、方法がより発展していくのかな・・・

「インターネットが神様の代わりをして誰を救ったの」

最近、1番印象に残ったGEZANというバンドの「東京」という曲の歌詞。

まさに、オンラインという関係性に神様は取って代わられたのではないだろうか。

自由が封じられて、束縛が開かれる。

聖域が閉ざされて、仮想の世界が開かれる。

休館となっている東京国立近代美術館のピータードイグの展示風景をモニター越しに見る。

GEZANのPVをループ再生する。

スカイプを使ってオランダ、イギリスと話す。

今、このモニター越しに様々な大切な時間を過ごしている。

だけど、そればかりが答えであって欲しくはない。

やっぱり僕は肌で感じていたいと思う。

小さな神話

田舎で育った為、野山や海、川でよく遊んだ。

様々な遊びやスポーツにはルールがあって、そのルールのもとで遊びやスポーツが成り立つ。

よくアートは自由だと耳にするが、そのアートにもルールがある。

ふと野山で遊ぶルールとは何だったのかと考えた。ここでいう野山で遊ぶとは、魚をとったり、クワガタをとったり、木を切ってゴルフクラブにしたり(プロゴルファー猿世代)、竹を切って弓を作り鳥を狙ったり、山菜を採ったりなどなど、主に狩猟採集となる。木や崖に意味もなく登ったりもよくしたものだが。

そうすると結局ルールと言えるのは必要以上に取りすぎたり、切りすぎたりしないということになる。じゃないと来年遊べなくなるから。

難しい話ではなく、小学生でも遊ぶ事によって肌で感じてきたこと。

当たり前だった。

暑い日照りが続いて川の澱みが取り残されると、逃げ場を失った川エビがそこに集う。普段はなかなか獲ることが難しい大物もそこに逃げる込むため、大興奮で獲り放題だった。でも父にはよく獲りすぎるなと注意を受けた。

その意味が分かる年頃になると、逆に下級生に獲りすぎるなと伝えていく。

そうして神話が受け継がれてきたという微かだが実感のような物がある。

大人になりアメリカのホワイトサンズの果てしない台地に一人で佇んでいた時にも感じた事だが、神とはやはりそうした関係性なのだと思う。生きることと切り離せず、コントロール出来ない関係性。

でも大学に入り環境デザインコースに進むと、そんなルールはどこにもないことに気づいた。

当たり前すぎて疑問にも思っていなかったルールが通用しない。

分からなかった。

しかし思い当たる節は子供の頃に一杯あった。

河岸工事の翌年は獲れる鮎のポイントも減ったし、大きさも小さく、量も減る。けれど毎年毎年工事は場所を変え繰り返される。

そうして川はどんどんと姿を変えていく。

どうやら僕はその疑問が膨らみ続けることによって、絵を描くことに進んで行ったらしい。

僕の中にある川は、小学生低学年の頃、父親と早朝クワガタを取りにいった時の川。

前日の雨は止んで薄明るくなりつつある川には靄が立ち込める。いつもより流量を増した川は流れが早く、足を取られないように必死に、かつゆっくりと足の置き場を確認しながら、対岸に渡っていった。

ふと川の真ん中で上流を眺めると、そこには様々な呼吸が満ち溢れていた。

神々しかった。

溢れる呼吸が気配となり辺りを包む。

そしてその溢れる呼吸が気配となり川の主を作る。

そこにも自分の中にある神話の節々を感じることが出来た。

ここでいう神話とは、物語として形となったものではなく、野山で培った、そこを満たす秩序のようなもの。

その美しき僕の川に、自分が追っている美のルーツを感じ続けている。

オンライン

‘ Sealed House 110 ‘ oil on canvas, panel 803×606mm 2020

ペインター四人でオンライン飲み会。

絵描きには絵描きにしか分からない領域がある。

それぞれどの分野にも同じように。

コントロール出来ない領域を気にしても仕方がない(何も出来ない)。

コントロール出来るこの手で一歩一歩進む。

いつも通り。

いよいよ展示が近づいてきた。

展示プランのやり取りも進む。

オープン出来るか分からないが、展示は予定通りに行い、見せ方はその時その時に最適な最善の方法を模索していく。

新作

‘Sealed House 109’ oil on canvas, panel 803×606mm 2020

新作として色数を制限して作った作品がある。

建物を覆うシートの色は、基本的にはその建物を撮った写真に映り込んだ色を落とし込む。

背景の色は、風景を描いた後に白く塗り潰す事から始め、グラファイトや様々な色を用いた均一な色面を多く用いてきた。

最近は特に建物を覆うシートを、より流動的な絵の具のタッチで描くようになった為、背景はその動きを活かすために硬質なグラファイトや、金属粉などを用いる事が多くなった。

今回の新作では、シートと背景の色を同系色で制作している一連の作品がある。背景は筆触を消した均一なミニマルな表現ともいえる。

モチーフとなるシートで覆われた建物の色が、背景の色面と同系色となる事により、建物自体が背景に同化していく事となる。

これまでは上に乗せる色を活かすための背景が、絵の具のタッチを飲み込む色面へと変化する。

結果、これまでよりタッチを意識的に活かすことにつながったのではないだろうか。

ペインタリーに、且つコンセプチャルに。