Shigeru Nishikawa

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Sealed House 121-New National Stadium 2- 970×1940mm oil, graphite, metal powder on canvas, panel 2020

初日

個展「under construction or destruction 2020 Tokyo」展示風景 撮影:鈴木一成

昨日、東京での個展「under construction or destruction 2020 Tokyo」@Gallery OUT of PLACE Tokio(3331 Arts Chiyoda 内)http://www.outofplace.jp が始まった。

このような状況下で個展を迎えるとは思いもよらなかったが、そのおかげで個展を開催する事が当たり前でない事や、伝える事の難しさと大切さを改めて痛感している。

作品の設置、個展の初日に立ち会えなかったのは初めてだったが、様々な方から感想や励ましの言葉が届き、また、思いがけない出会いもあり、在廊出来なかったにも関わらずとても感慨深い初日となった。

そして何より、展示や初日をギャラリーに安心して託せる事がとてもありがたい。

今後、無事に最終日までオープン出来るのかも正直わからないが、出来るだけ多くの方に今回の個展の空気を感じてもらいたい。

この展示は2020年東京オリンピックの直前に開催するために、ギャラリーと共に2,3年前から準備をしてきた。

個展に寄せたテキストにも書いたが、メイン作品のモチーフである隈研吾設計による建設途上の新国立競技場は、ザハ・ハディドの案が白紙となった上に立っており、シリーズ「Sealed House」の最たるモチーフであるからだ。

国立競技場以外にも、シートで覆われた自由の女神、宮島の大鳥居、ニュータウンなどの新しい試みも、まさにこの閉塞した状況とリンクする事となった。

オリンピックも来年に延期となるこの不安定な状況の中で、今回の展示が開催できたことが僕にとって意義深いことのように思う。

スタジオを掘り起こし、庭を整理する。

「Sealed House 126」 oil on canvas, panel 803×606mm 2020

友人の父が釣って調理した稚鮎の甘露煮を戴く。

裏に住む家主さんの家の木にたわわになったサクランボを収穫し、戴く。

転居した友人の家の庭になっている蕗をとり、戴く。

美味しい。

庭の草引きを行い、切り株の根を抜き、土を耕し、本格的に菜園(とても小さい)の準備をする。

スタジオを整理していると何年か前の紙の作品が出てきた。

exercise for spaceと題したそれらは、広大なアメリカの空間を捉えようとした試みであり、僕にとって正しく地道で大切なトレーニングのような物。

今も瑞々しく、目に映る。

こうした些細でささやかな始まりの仕事も出来る限り残していこうと思う。

そして新たに始めていこうとも思う。

畑の土を作り、油彩の下地を作る。

地味だけど大切な仕事。

これからやって来る暑い夏を超えて、秋へと向かう。

梅と蘭

Sealed House 107 oil on canvas 410×320mm 2020

先日、一輪の梅の花が咲いた。

それは毎年三月下旬に満開になる、家の庭に咲く梅の花なのだが(今年は暖冬の影響で中旬には満開に)、四月の終わりになって一輪の花が咲いていた。もうとっくに花を散らせ、新芽が芽吹き、毛虫の季節が来るなと考えていたら、何故か一輪、見事に咲いていた。

また、三年前の個展の時に頂いた蘭の花も、同じく今年再び咲いたのだ。この蘭は小さな流木に根付かせている、インテリアのような欄。頂いた時も可憐な花を咲かせていたが、その後は咲くことはなかった。

それが今年になり、また咲いたのだ。

僕には特別に映るその開花も、梅や蘭にとってはひょっとするとそれほど不思議なことではないのかもしれない。

結局は自然とはまた、日常とはそうしたものだろう。

でも人は特別な開花として彩り、そうした日常を愛でる事が出来る。

学生の頃、先生が「誤解と深読みは美術の面白さの一つだ」と言っていた事を思い出した。

今年の開花は、僕の誤解と深読みによって、彩り、愛でることにより特別な開花しているだけかもしれない。

そして、そうであったとしても良いじゃないか。

ニュータウン

「Sealed House 130-new town-」oil, metal powder on canvas, panel 970×1940mm 2020

ニュータウン

この土地に引っ越してきて、多くの遠足と呼べるような散歩を繰り返してきた。

郊外には広大な土地が、区画整理されて広がり続けている。

かつてそこにどんな風景が広がっていたのか、何がなくなったのかも分からない更地。

次にそこを訪れた時には、道路が走り、多くのシートで覆われた建物が立ち始めている。

そうして一つの街が出来上がっていく。

新しい街。

その向こうにかつての森は必要ないのだろうか。

映画「人生フルーツ」を思い出す。

「かつて日本住宅公団のエースだった修一さんは、阿佐ヶ谷住宅や多摩平団地などの都市計画に携わってきました。1960年代、風の通り道となる雑木林を残し、自然との共生を目指したニュータウンを計画。けれど、経済優先の時代はそれを許さず、完成したのは理想とはほど遠い無機質な大規模団地。修一さんは、それまでの仕事から距離を置き、自ら手がけたニュータウンに土地を買い、家を建て、雑木林を育てはじめました・・・(人生フルーツ公式サイトより)」

仮囲いの街。

これから僕たちは何を捨て、何を忘れ、何を見て、何を求めていくのか。

津端修一さんと話してみたかった。

吉兆

[ Sealed Gate -宮島- ] oil, metal powder on canvas 650×650mm , 2020

先日、作品の搬送のため、運送業者の所にレンタカーで作品を運んでいた時の事。

道すがらの川沿いにキジの雌雄がいた。

興奮して眺めている(キジを見ると昔から興奮する。弓矢を自作していた小学生の頃の憧れの標的だった。)とその後も計10匹を超えるキジが河原の茂みに姿を見せている。

「今日はなんて日だ」と、明け方の激しい雨が止み、晴れ間を覗かせ始める空を見ながら街中に車を走らせると、今度はこれでもかと柴犬を見かけ再びテンションが上がる(柴犬飼いたい)。その数、1、2、3、4、5連続。

まだ小雨が降ったりする中、主人の都合などそっちのけで歩く姿が柴犬らしくたまらない(この空模様では柴犬以外は出会わなかった)。

そういえば小学生の頃、散髪屋さんが柴犬(コータロー)を飼っていたので、散髪の後で友達とよく散歩に連れて行った。(ちゃんとおじちゃんに伝えてから)

直ぐ前の砂浜に連れて行き、リードを離す。

誰が最初に捕まえるか、コータローとの真剣勝負。コータローめがけダイビング。砂まみれ。

散髪屋のおじちゃんはまさかそんな事して遊んでいるとは知らなかっただろうな・・・。いや、でもコータローもめっちゃ楽しんでいたはず。

地元の神社を詣でると、そのまま裏山を抜けてぐるっと散歩をして帰るのだが、その裏山は僕の中のキジスポットだ。

キジを見るということは僕の中では、吉兆と捉えていてそれだけで良い年になると感じている。

同じく、大台ヶ原を抜ける際に出会う事があるカモシカも吉兆。

だから何だという話だが、この不穏な空気がなんとなく漂う中、関係なくキジが群れ、柴犬が歩く。

キジ、犬・・・あれ、猿でコンプリートだな。

気持ちの良い日だった。