Shigeru Nishikawa

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Sealed House 121-New National Stadium 2- 970×1940mm oil, graphite, metal powder on canvas, panel 2020

沈黙

個展「under construction or destruction 2020 Tokyo」展示風景 撮影:鈴木一成

映画「沈黙」を見て、原作も読む。

神とは信仰とは何だろうか。

物語の中で役人達は信徒に対して、建前で踏み絵を踏めという。形式上、手続き上、踏んだという記録があれば、そのまま裏で信仰を続ければ良いからと説得する。

それでも踏まない、信徒たち。

また建前で構わないくらいだと言いながら、役人達はそんな建前の為に信徒たちを殺していく。

傍らでそれでも祈り続けるパードレ。

沈黙を続ける神。

僕は神さまを偶像化する事は出来なくて、神さまは人と自然との関係性だと考えている。

人がコントロール出来ない自然と折り合いを付けるために神さまを必要としたのだと。

八百万の神。

科学の発展に伴い、希薄となってきている関係性。

トンボとヘリコプターを小さく同等に描いていた時もこの関係性を描いていた。

Sealed Houseのシリーズも、都市や郊外で人が繰り返す破壊と創造、その土地や場所との関係性を顕にする試みと言える。

そう思うと僕はずっと神さまを描いているのかもしれないとふと思った。

人と自然との関係性という神さま。

折り合いをつけるということ。

解除

個展「under construction or destruction 2020 Tokyo」展示風景 撮影:鈴木一成

関西では緊急事態宣言はどうやら明日にも解除される方向らしい。

そうでなくとも、ここ数日は市内も大分車が増えてきているように感じていた。

国立国際美術館も6/2から再オープンという事で、少しずつ新しい日常が始まる。

首都圏も今月中に解除されるといいな。

すれば、個展も最終週には週末も開けれるかもしれない。

少しずつ新しい日常を受け入れる。

でも、 外界はいつだって変わらぬ営みである事にたまに救われ、たまに突き離される。。

眼福

Sealed House 122 oil, metal powder on canvas 606×455mm 2020
個展「under construction or destruction 2020 Tokyo」展示風景 撮影:鈴木一成

この時期の新緑は本当に目に眩しく映る。

木々の葉はキラキラと風に揺れ、輝き、目が本当に喜んでいるように感じる。

 僕は高学年にあがる頃に視力が落ち始めた。

親からは目が良くなるから緑を見なさいと言われて、家の間近に迫る山をよくぼんやりと見ていた。そういえば父は眼に良いからと言って、うなぎを釣って捌くときにそのまま生の肝を食べていた。(しかし、父はずっと目が悪いまま。)

全然楽しくないし、むしろ退屈で、直ぐに視線は別の所へと移る。

緑が目に良いってどんな根拠や理由があるのか皆目見当もつかなかった。

が、それは距離感や対象に問題があったのではないかと、庭の新緑を味わっているときに思った。

この新緑を見るときに感じる目の喜びが、目が良くなるという事ではないかと。

子供の頃の緑といえば大きな山だった。それは1番大きな対象であり、絵を描くときに山は緑、空は青、雲は白、りんごは赤といった記号のような物だった。そこから緑といえば山だったのだ。

遠くの山に風を感じないし、鳥の声や、光の煌めきなんかも見えるわけがない。目が喜ぶはずもなく、退屈なだけである。

多分、目が良くなるから緑を見なさいの緑は、新緑の緑が目にもたらす快感を指しているにではないか。そこには煌めく、揺らめくと言った要素が必要で、遠くの山々の緑ではないのだろう。

遠くの山々を見て喜ぶのは想像力の方で、これは山登りやスキーなどが好きな人や、何かしら山々から具体的な恩恵を受けている人が想像する喜びであって、目の喜びではない。

その為、「目が良くなるから緑を見なさい」とは具体的に新緑の緑なんじゃないかと思ったのである。

何も調べてないので真実は知りませんが。

でも、そう考えると納得がいく。

光を通す薄くて強い緑。浅くて深い緑。暗くて鮮やかな緑。折り重なって煌めいて、揺らめく緑。

見るより先に目が喜ぶ。

この緑の世界には、キャンバスの絵の具の世界では矛盾するような薄く強い、浅く深い色がただそこに存在する。

この矛盾を矛盾のままに、眼福を捕まえたいと庭の新緑を見て思う。

信じつつ疑う。

個展「under construction or destruction 2020 Tokyo」展示風景 撮影:鈴木一成

当初は三月のフェアと四月の個展にかけて東京に行く予定だったので、オラファー・エリアソン、ピーター・ドイグ、白髪一雄の展示を見る事をとても楽しみにしていた。

白髪一雄の作品からはキャンバスの大きさに対しての筆跡(足跡)の幅はどうかなどをみたりする。

これくらいの筆跡(足跡)の幅があればどう見えるのかとか。

キャンバスの大きさに対してのタッチの大きさ、どのくらいの手数が入っているかなど、とても注意深く眺める。

色を必要以上に混ぜ合わせないためには手数を減らす必要がある。

手数を減らすためには最短で最大の効果を持つタッチが必要となる。

削りつつ、増やすためにはどうしたらよいか。

増やすために、減らす。

そうして最短距離を模索するのだが、いつも気をつけている事はそうした最短距離が、必ずしも良い作品を作るわけではないという事。

良い制作はできるかもしれないが、良い制作が良い作品とは限らない。

信じつつ疑う。

矛盾ばかりだが、その矛盾を矛盾のままに受け入れる事が、大事なんじゃないかと最近よく思う。

群像図

個展「under construction or destruction 2020 Tokyo」展示風景 撮影:鈴木一成
Sealed House 130-new town- oil, graphite, metal powder on canvas, panel 970×1940mm 2020

Sealed House 130-new town-は群像図が形になった作品で、近所の宅地開発現場を描いた作品です。

散歩をして、こうした建設中、解体中のシートで覆われた建物を写真に撮っているが、歩き慣れた土地であっても唐突に現れる更地にドキッとする事がある。

度々通っているのに、そしてこんなに大きな更地であるのに、前に何があったのかが思い出せないのだ。

そして直ぐに新しい住宅地なり、大型店舗なりに姿を変えていく。

そうして、かつてのその場所を忘れた事さえ忘れてしまい、その場所に馴染んでいく。

新しい街の記憶であり、かつての街の忘却。

簡単に更新されてしまう。