Shigeru Nishikawa

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Sealed House 121-New National Stadium 2- 970×1940mm oil, graphite, metal powder on canvas, panel 2020

上京

初めての上京は中学三年生の修学旅行。

東京ドーム、ディズニーランド、東京タワー、国会議事堂、原宿・・・。

原宿の所さんのお店で下敷きとか、たけしの元気が出るTVの筆箱とか、やまだかつてないTVとか・・・そんな時代。

東京ドームも巨人戦ではなく、日ハム戦。当時はまだ今ほどパ・リーグに勢いがなかった時代。でも僕は近鉄ファンだった。

同級生11人、担任、副担任、教頭の確か14人くらいのパーティー。

初めての地下鉄、自動改札。真っ黒になる鼻の穴。

初めて行ったテレビの中の東京。

あの頃は見るもの全てが怖くて、敵のように感じてしまっていた。笑

それでも今では待ってくれている人たちや、会いたい人たちが居る。行きたい場所もある。

30年近くの時を経て、印象は随分と変わったかもしれないが、変わらずワクワクとしている。

東京2020

ピータードイグとオラファーエリアソンの個展を見るのはまたの機会(まだ見れる機会が続くことに感謝)になるが、今週ようやく東京に行く事となる。

展示が始まるまでも、始まってからも、これまで長い日々が続いていた。

それに比べると今週末の在廊時間はあっという間なのだろう。

けれどもこれほど待ち望んだこともないのかもしれない。

楽しみだ。

そんな思いで色々と準備をしているとクリストが亡くなったとニュースで知る。

Sealed House というシリーズを描き始めた当初から、クリストの事はずっと頭にあったし、作品を見た人から話題に上がることも少なからずあった。

今回展示しているSealed Gateは宮島の大鳥居が覆われている作品だが、クリストのセントラル・パークのThe GatesのプロジェクトはGateを公園中に張り巡らせたプロジェクト。封印と解放。

また今回、初めて自由の女神という銅像が覆われた作品を描いたときは、やはり家とは違い、明確にクリストの梱包が頭に浮かぶ。彼らは実際に覆うことは考えなかったのだろうかなど。。。

言わずと知れたアーティストで、僕自身は彼ら(ジャンヌも含め)のプロジェクトは見たことはなかったが、一度は実際に見てみたいと思っていた。

もう見れないかと思っていたら、今年に実施予定であった凱旋門の梱包プロジェクトは来秋に延期となったとのこと。死後もプロジェクトが継続されることが、二人がこれまで行ってきたことの偉大さを感じさせる。

クリストは美術手帖のインタビューに対して

「2度と見られないことを知っているから、たくさんの人が見に来るのです。プロジェクトは所有できない、買えない、入場料も取らない、すばらしく非合理なものです。ありふれていない、役に立たない(ユースレス)ことこそが、クオリティーを支えているのです」

と語っていたという。

一期一会。

このコロナ禍で「アートが役に立たない」とはよく聞いた話のように思う。

役に立たないとは何だろう。

クリストのいう役に立たないとは純粋に自分たちの為に作っているという意味だろうか。

誰かのためではなくて。

そこにアートの本質の一つがあると思う。自分たちの見たいものを作る。

何かや誰かの役に立たなくても、必要か必要でないかはそれぞれに異なる。

僕は来秋パリに行きたい。

点と線

「車軸」 
著:小佐野弾 装丁:鈴木成一デザイン室 カバー作品:Sealed House 80

一年前、手元に鈴木成一デザイン室により装丁された小佐野弾さんの小説「車軸」が手元に届いた。

自分の作品がこうして本の表紙として採用されるとは想像だにしておらず、その年の3月のアートフェア東京での出会いからトントン拍子で話が進んで行った。

色の交わり、支える軸。小説の内容とも確かに自分の作品がリンクしていることが嬉しかった。

また、この年の末には同じフェアにて出合った佐藤拓さんの企画となる展示を、H Beauty & Youthにて行うことが出来た。

ギャラリー以外でこうして展示するとは思いもよらなかったが、とても良い展示に仕上げることが出来た。

この二つの出来事は昨年のハイライトと言えるかもしれない。

今年のフェアはこの状況で中止となってしまった。

発表の機会がなくなることはやはり心苦しいことであるが、こうした出会いの場がなくなることが悲しかった。

これからもこうした不測の自体は起こることもあるかもしれない。

けれども、これからも作品を作り続けることで、人との出会いを重ね、新しい扉を開いていきたい。

ミッドサマー

個展「under construction or destruction 2020 Tokyo」展示風景 撮影:鈴木一成

映画「ミッドサマー」を観る。

ヘンリダーガーの世界観のようなビジュアルインパクトが印象的で、予告編を見た瞬間から楽しみにしていた。

こんな状況なので観ることは叶わないかと考えていたが、幸運にも観る機会に恵まれた。

アメリカの健全なコミュニテイにて1年間を過ごした体験から、コミュニテイの持つ、どこか独特の空気感は想像が付くし、これまでの常識とは違う異なる習慣の中で暮らすことは、不安と戸惑いの連続であり、新しい体験の喜びだったことを思い出していた。

しかし、映画で描かれているコミュニテイは、常軌を逸した前近代的な慣習の上に成り立っており、おとぎの国のような衣裳や、天使のような振る舞いからはそのイメージとは程遠い殺意が滲み出ている。

最初から言いようのない不安感が脱ぐいきれず、コミュニテイの祝祭が進めば進むほどにその不安感がジワジワと浸食してくる。

クライマックスでそれまで飛んでいた主人公の視野がグッと定まるのは、絶望の果ての希望なのか何なのか。

強烈な世界観だった。

沈黙の時にも書いたけど、神や信仰や人間の残虐性について考える。

フィクションで描かれたミッドサマーより、史実に基づいた沈黙における拷問の方が執拗で残虐であるという事。

実際に起こり得る現実は想像を軽く超えていく。

沈黙

個展「under construction or destruction 2020 Tokyo」展示風景 撮影:鈴木一成

映画「沈黙」を見て、原作も読む。

神とは信仰とは何だろうか。

物語の中で役人達は信徒に対して、建前で踏み絵を踏めという。形式上、手続き上、踏んだという記録があれば、そのまま裏で信仰を続ければ良いからと説得する。

それでも踏まない、信徒たち。

また建前で構わないくらいだと言いながら、役人達はそんな建前の為に信徒たちを殺していく。

傍らでそれでも祈り続けるパードレ。

沈黙を続ける神。

僕は神さまを偶像化する事は出来なくて、神さまは人と自然との関係性だと考えている。

人がコントロール出来ない自然と折り合いを付けるために神さまを必要としたのだと。

八百万の神。

科学の発展に伴い、希薄となってきている関係性。

トンボとヘリコプターを小さく同等に描いていた時もこの関係性を描いていた。

Sealed Houseのシリーズも、都市や郊外で人が繰り返す破壊と創造、その土地や場所との関係性を顕にする試みと言える。

そう思うと僕はずっと神さまを描いているのかもしれないとふと思った。

人と自然との関係性という神さま。

折り合いをつけるということ。